【意味】「長駆直入」とは、軍隊が誰にも阻まれることなく勢いよく前進し、敵の中枢深くまで突き進む様子を表す成語。
【出典】この成語は曹操の『労徐晃令(ろう じょこう れい)』に由来する。「吾が兵を用いること三十余年、及び聞きし古の善く兵を用いる者、長駆して敵の囲いに径(なま)なに入るもの無し。」
西暦219年、曹操は戦略的要地である荊州を奪取するため、劉備とこの地域で激しく戦っていた。劉備の大将・関羽は重兵をもって襄陽を包囲し、曹操の従兄弟である曹仁は襄陽に隣接する樊城を死守していたが、非常に厳しい状況に陥っていた。
この年7月、曹操は虎威将軍の于禁に軍を率いさせて曹仁を援護させた。まもなく樊城一帯に激しい豪雨が続き、漢水が氾濫した。関羽はこれを好機と見て、水を引き込んで曹軍を水没させた。その結果、于禁の軍は全滅し、やむなく降伏した。
洪水が樊城内まで押し寄せたため、曹仁の立場は危機的となった。部下の将軍たちの一部は樊城を捨て、船で退却することを勧めた。しかし、一部は強く反対し、水位がずっとこのまま高くなるはずはなく、いずれ引くだろうから、引き続き堅く守るべきだと主張した。曹仁はこの意見に理があると感じ、樊城を死守することを決断した。
やがて曹操は再び大将・徐晃に軍を率いさせて樊城の包囲を解かせた。徐晃は老練で策謀に長け、軍をすぐには樊城に進めず、やや離れた場所に陣を敷いた。その後、暗箭(あんかん)を使って城内に書簡を射込み、曹仁と連絡を取った。ちょうど曹操も他の援軍を組織中で、徐晃の行動を聞いて大いに賛同し、各路の兵が揃うまで待って、一斉に樊城へ向かうよう命じた。
当時、劉備の一部の軍隊は樊城からそれほど遠くない偃城に駐屯していた。徐晃は一部の軍隊を率いて偃城の郊外に到着し、わざと落とし穴を掘って、偃城の軍の退路を断つように見せかけた。駐屯軍は計略に陥り、急いで偃城から撤退した。こうして徐晃は容易くこの城を占領した。
このとき、曹操が組織した十二路の援軍が到着していた。徐晃はこれらの軍と合流し、曹仁と内外から関羽を挟撃する作戦を立てた。
関羽は囲頭と四塚(しちゅう)の二か所に軍を配置していた。徐晃は表面上は囲頭を攻撃するふりをし、実際には自ら大軍を率いて四塚を急襲した。関羽が徐晃の主攻方向に気づいたときには、すでに手遅れだった。急いで四塚に駆けつけた五千の兵は、すぐに徐晃に敗北した。続いて徐晃は部下を率いて、関羽が曹仁を包囲している陣地の奥深くまで突入した。関羽の兵士たちは敵わず敗走し、襄陽と樊城はついに包囲を解かれた。
徐晃の捷報が曹操のもとに届くと、曹操は直ちに慰労の令を書き、前方に使者を送った。令にはこう記されていた。「我、兵を用いて三十余年、古の善く兵を用いる者を知るに、長距離を絶えず駆け、ひたすら前へ進み、敵の囲みの中に突入した者、汝の如き者は未だ一人も見たことがない。」