康熙帝の晩年、皇位をめぐって十数人の皇子たちが互いに策謀を巡らせ、清朝史上最も激しい皇位継承争いが起こった。いわゆる「九子奪嫡(きゅうしかくだい)」である。多くの皇子たちがこの渦中に巻き込まれる中、一人の皇子だけは落ち着き払って、これらの争いに全く関心を示さず、学問の研究に専念していた。
その人物こそ、康熙帝の三男胤祉(いんし)である。康熙帝自身が学問を好み、宮中には外国から来た宣教師もいたため、息子たちの教育にも力を入れていた。胤祉はそのような父の苦心の末に育てられた才人であった。この皇子は他の面では兄弟たちに劣っていたが、才学に関しては群を抜いていた。
当時、多くの皇子たちが皇太子の座を狙い、あらゆる策略を駆使していたが、胤祉は異なり、彼の周囲には文人たちが集まり、書籍の編纂や校訂に多くの時間を費やし、『律暦淵源(りつれきえんげん)』『古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)』という二つの大著の編纂を主導した。そのため、父である皇帝から深い信頼を得ていた。
しかし、胤祉は皇位継承争いから距離を置いていたものの、雍正帝が即位すると、弟である雍正帝に執拗に狙われ、最終的には幽閉されて亡くなるという悲惨な結末を迎えることになる。なぜだろうか?
雍正帝が当初胤祉に不満を抱いていたのは、彼が皇太子胤礽(いんじょう)と比較的良好な関係にあったためである。「敵の友は敵」という原則から、当然ながらこの三兄を好まなかった。そのため、即位後すぐに胤祉への圧力を始めた。まず胤祉の側近である陳夢雷(ちんむらい)を辺境へ追放し、次に直接この三兄に手を出し、康熙帝の陵を守らせるよう強制し、その後彼の名を「胤祉」から「允祉(いんし)」に改名させた。胤祉の息子も同様に災難に遭い、罪を犯したとして爵位を剥奪された。
かつて深い寵愛を受けていた胤祉にとって、これは極めて大きな屈辱であったが、状況が人を圧倒するため、彼はうなだれて従うしかなかった。その後数年間、雍正帝が政務に忙殺され、胤祉が脅威と見なされなかったため、彼を放置していた。しかし、これは一時的なものにすぎなかった。雍正六年、胤祉が賄賂を受け取ったと告発され、再び重点的に攻撃され、親王から郡王へと降格された。辛うじて二年耐え、ようやく親王の地位を回復した。あれこれ苦労した胤祉は、これ以上ない屈辱を味わったが、彼が決して予想できなかったのは、さらに大きな災難が迫っていることだった。
親王の地位を回復して間もなく、雍正帝が最も信頼していた怡親王胤祥(いんしょう)が突然病没した。雍正帝はこれに打ちひしがれた。雍正帝が最も悲しんでいる最中、胤祉は重大な過ちを犯した。雍正帝が胤祥の葬儀を行う際に、彼は無断で遅刻したのである。しかも、弟の死に対してほとんど悲しみを示さず、この態度は雍正帝の逆鱗に触れた。
葬儀の後、雍正帝は直ちに胤祉に責任を追及し始めた。当時、荘親王允禄(いんろく)が主導し、他の数名の大臣と共に胤祉の不適切な行動を弾劾する上奏を行った。その中には、失脚した八阿哥と密接な関係にあったという重大な罪状も含まれていた。宗人府は当初、「(允祉)とその子の弘晟(こうせい)は共に死刑に処すべき」と判断した。雍正帝はこの意見を採用せず、「寛大な処置」として胤祉の爵位を剥奪し、幽閉させた。
こうして雍正帝の連続的な圧力の下、胤祉は完全に再起の可能性を失い、一族全員が雍正帝の派遣した者たちによって厳重に監視され、囚人同然の状態となった。それから二年も経たないうちに、胤祉は憂鬱と病のため亡くなり、喜びから始まったが悲劇で終わった人生を終えた。