【歴史典故】
宋の時代、長沙には景岑(けいしん)という高僧がおり、号は招賢大師(しょうけんたいし)といった。彼は仏学の造詣が深く、常に各地を巡って説法や経典の講義を行っていた。大師の講義は奥深くもありながらわかりやすく、語り口は生き生きとしていて感動的であり、聴衆はいつも深く感銘を受けていた。
ある日、招賢大師はある仏寺に招かれて経典を講義することになった。講義を聴きに来た僧侶は多くいたが、法堂内は大師の声以外は静まり返っていた。講義を終えると、一人の僧侶が立ち上がり、大師に礼をした上で、いくつかの質問をし、大師の解説を求めた。大師も礼を返して、ゆっくりと答えた。僧侶が理解できない点があると再び質問し、二人は一問一答を繰り広げ、和やかな雰囲気の中で会話を続けた。二人が語り合ったのは、仏教の最高の境地である「十方世界」に関する内容だった。十方世界が具体的にどのようなものかを説明するために、招賢大師はその場で偈帖(げじょう)を取り出した。所謂偈帖とは、仏教において偈(うた)を記録した冊子のことである。大師は偈帖に書かれた一節を指し示しながら、こう唱えた。「百丈竿頭不動人、雖得入未為真。百丈竿頭須進歩、十方世界是全身。」これは、「百丈(約300メートル)の竹竿の先に立っていても、まだ真の境地に至ったとは言えない。百丈の竿の先に立っても、さらに一歩進まねばならず、十方世界こそが真の全体である」という意味である。
【成長の心語】
魯迅は言った。「不満足は上昇の車輪である。」人間にとって最も強力な相手は他人ではなく、まさに自分自身であり、自分自身を越えなければ、真の進歩と成功は得られない。「不満足」とは、希望であり、追求であり、美しいものへの憧れである。決して満足しないからこそ、人類は低次元から高次元へと進み、原始社会の洞窟や草小屋に住み、葉や獣の皮で衣服とするような苦難から脱却し、かつての石器から今日の電子技術や宇宙航空へと発展してきたのである。たとえすでに「百尺竿頭」に達したとしても、「更に一歩進む」ことを忘れてはならない。