【出典】(春秋)左丘明『左伝・僖公二十三年』
【意味】舍(しゃ):古代の行軍で、三十里(約15キロ)を一舍とする。自ら軍を九十里(三舍)退くこと。争いを避け、積極的に譲歩・回避することをたとえる。
【歴史典故】
春秋時代、晋国は内乱に見舞われた。晋献公は讒言を信じ、太子の申生を殺害し、その弟の重耳を捕らえるよう命じた。重耳はこの知らせを聞き、晋国を逃げ出して十数年間国外を流浪した。その間、重耳はある時期楚国に滞在していた。楚成王は重耳が将来大成すると考え、国賓として迎え、上賓として厚遇した。
ある日、楚王が重耳を宴に招き、二人は酒を酌み交わして語り合った。その雰囲気は非常に和やかであった。すると、楚王が突然重耳に尋ねた。「もし、いつか晋国に帰り国君になれば、どのように私に報いるかね?」重耳は少し考え、こう答えた。「美女や召使い、珍宝や絹織物は、大王のところにはすでに十分ある。珍しい鳥の羽や象牙、獣皮など、楚の地の特産品も豊富です。晋国に何の珍しい物を大王に差し上げられましょうか?」楚王は「公子、謙遜しすぎだ。そう言うが、何か私に示すべきではないか?」と返した。重耳は笑って答えた。「もし大王のおかげで、本当に国に帰り国君になれるなら、貴国と友好を結びたいと思います。しかし、もし将来晋と楚の間に戦争が起きたならば、私は必ず軍隊に九十里後退するよう命じましょう。それでもなお大王の許しが得られなければ、戦いを始めましょう。」彼らと共に宴をしていた楚の大将・子玉は、重耳のこの言葉を聞き、彼が将来大物になると確信し、楚王に重耳を殺して将来の禍根を断つよう進言したが、楚王はそれを拒否した。
数年後、重耳は秦の助けを得て、ついに晋国に帰り国君となった。これが歴史上有名な晋文公であり、晋国は彼の治世のもとでますます強大になった。
紀元前633年、楚国と晋国の軍隊が戦場で対峙した。晋文公はかつての約束を果たすため、軍隊に九十里後退し、城濮(せいほ)に陣を敷くよう命じた。将兵たちはみな反対したが、晋文公は「戦いは道理が通ってこそ勝てる。今、我々が自ら後退すれば、楚は道理を失う。彼らが攻めてきても、我らの兵士は怒りを胸に、士気が高まる。この戦いに負けるはずがない!」と説いた。楚軍は晋軍が後退したのを見て、相手が恐れていると思い、直ちに追撃を始めた。晋軍は楚軍の驕りと敵を軽視する弱みを突き、兵力を集中して楚軍を大破し、城濮の戦いに勝利した。
【成長への心の声】
進むことと退くことの間には、微妙な関係がある。目の前に広く平坦な道があれば、迷わず前進できる。しかし、もし目の前に茨の道が広がっていたら、無理に突き進む必要はない。旅立ちの前に一歩後退することで、かえって海のように広い世界が開けるかもしれない。レーニンの言う「より高く跳ぶためには、まず一歩下がる」ように、三舍を避けて退くという行為は、まさにこの知恵を体現している。ここで言う「退く」は、消極的・受動的なものではなく、機会をうかがい、力を蓄えるための積極的な退却である。後発で相手を制するには、状況に応じて柔軟に対応すべきであり、一つの方法に固執してはならない。したがって、適度な譲歩は、道義的により広範な支持を得るだけでなく、敵の勢いを挫き、勝利を収める手段ともなる。