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高陽の酒徒

By 故事大全 , 26 August 2025

「酒徒」という二文字を口にすれば、耳を疑い、小題大作と思われるかもしれない。だが、酒徒とはただ酒を好む人のことである。『辞海』には、「自らを酒徒と称するのは、狂気と傲慢を含み、他人を酒徒と呼ぶのは、多く貶義を帯びており、理にかなっている」とある。しかし古人の見解は必ずしもそうではなく、唐代の有名な文学者元結は酒徒を讃える歌を詠んでいる。「山を杯とし、水を沼とし、酒徒たちは島々に座して、はっきりと見える」と。高陽の酒徒といえば、漢代には国家に功績を残した人物がおり、酒によって大業を成した記録さえあるのだ!

高陽の酒徒酈食其(れい しょくき、音は「き」)、陳留の高陽(現在の河南省杞県西南)の出身で、漢の高祖劉邦の謀臣であった。若き頃から大きな志を抱き、好んで読書したが、家は貧しく、落魄して生計を立てる術もなかった。酒を好んだため、後に門番の監門吏の役職についた。県の役人や郷里の豪族たちも彼を任用することを恐れ、皆「狂生」と呼んでいた。しかし彼は信念を貫き、時機を待っていた。紀元前209年、陳勝・呉広が「無道を討ち、暴秦を除く」という旗を掲げると、天下の英雄たちが次々とこれに呼応した。その時、項梁は会稽で兵を挙げ、劉邦は沛で兵を挙げ、蜂起の嵐が全国を席巻した。陳勝・項梁らの蜂起軍が高陽を通過したが、酈食其はいずれも軽んじ、いずれも鼠目寸光の輩で、大いなる道理を聞く耳を持たぬ者と見なした。ただ劉邦(沛公)だけは、「人を侮るが、大略あり、これがまさに私が従いたいと思う人物だ!」と感じ、自ら進んで劉邦の下に身を寄せた。

沛公劉邦、字は季。仁愛に富み、生産労働を好まず、施しを好み、心は広く、常に大度量を示した。壮年期は泗水亭長を務め、地元では有名な無頼漢であった。酒と女色を好み、よく酒屋で酔って寝ていた。まさに地に足のついた酒徒であり、酔った勢いで呂公に気に入られ、その娘呂後を妻にした。また、酔って白蛇を斬ったことにより名声を得、自信を深め、秦への反乱を起こした。紀元前207年(二世三年)、劉邦は西へ兵を進め、盗賊出身の彭越の蜂起軍と出会い、共に秦軍と戦ったが、戦いに勝てなかった。その後、昌邑を攻めるも陥落させられず、西へ進んで高陽に至ったところ、酈食其に出会った。酈食其は「大人長者」として劉邦に会うことを求めた。

ある日、劉邦は床に座り、二人の女に足を洗ってもらっていた。すると、郷里の儒者が会いたいと申し出たとの報せが入った。その人物は六十歳を過ぎ、身長八尺あり、人々は皆彼を「狂生」と呼んでいたが、本人は狂ではないと自認していた。劉邦は儒者を軽んじており、かつて儒者に会った際には、儒者の帽子を小便器代わりにし、儒者を侮辱したこともあった。今回、儒者が会いたいと申し出たと聞いて、激怒し、使者に会うのを断れと命じ、「私は天下の大事を重視している。儒者と会う時間などない」と言った。外で長い間待っていた酈食其はこれを聞き、「目を怒らせ剣を叩き、使者を叱りつけた。『行け、再び沛公に伝えろ。私は高陽の酒徒であり、儒者ではない!』」と。使者は急いで報告すると、劉邦は「高陽の酒徒」と自ら名乗ったことに、来訪者がただ者ではないと感じ、慌てて足も拭かず、足を踏ん張り矛を手にし、「入れ!」と叫んだ。酈食其が入ると、劉邦に深く礼をせず、「暴秦を倒したいのなら、なぜ長老に対してこれほど傲慢な態度を取るのか? 秦を助けて諸侯を攻めるつもりなのか? それとも諸侯を率いて秦を破るつもりなのか?」と問いかけた。劉邦は途方に暮れ、足の洗いをやめ、衣服を整え、急いで酈食其に上座を勧め、謝罪した。「以前、先生の容貌を聞いていたが、今日ようやく先生の真意がわかった!」そして計略を尋ねた。高陽の酒徒はこう答えた。「あなたは寄せ集めの兵を率い、散り散りの兵を集め、まだ一万人にも満たない。これで強大な秦に直接攻め入ろうというのは、まさに虎の口に手を突っ込むようなものだ。陳留は天下の要衝であり、四方に通じる要地である。今、その城には多くの穀物が蓄えられている。私はその県令を知っている。今、私が彼を説得して、あなたに従わせよう。もし彼が従わないなら、あなたが兵を挙げて攻め、私は内応する。そうすれば、大業は成るであろう。」

そこで劉邦は酈食其の提案を受け入れ、まず陳留を攻め取ることを決意し、酈食其を内応役に任命した。酈食其は县城に入り、陳留の県令に陳勝・秦の将、漢王の興隆の道理を説き、劉邦に降伏するよう勧めた。しかし県令は秦の厳しい法律を恐れ、軽々しく行動できず、断った。その夜半、酈食其は県令を殺害し、その首を城壁から下して、劉邦に知らせた。劉邦は大事が成ったと見なし、兵を率いて县城を攻撃し、竹竿に県令の首を突き刺して、「さっさと降伏しろ! お前の県令は既に斬首された! そうでなければ、城を落とすのが遅れた者も斬首されるぞ!」と大声で叫んだ。城上の守備兵は県令が死んだのを知り、守る気を失い、城を開いて降伏した。劉邦は城に入り、「その倉庫の兵器と食糧、蓄えられた穀物を手に入れ、三ヶ月分の兵糧を確保し、兵数は数万に達し、ついに秦を破った。」これはすべて高陽の酒徒の功績である。

高陽の酒徒酈食其の果たした役割と国家への功績は、主に以下の点にある。

第一に、劉邦が進退に迷い、決断を下せない時、酈食其が陳留攻略の方向を示し、劉邦の反秦戦争の最初の功績となったこと。

第二に、陳留を攻め取ったことで蓄えられた穀物が、蜂起軍の三ヶ月分の兵糧を賄い、後方支援の心配がなくなり、進軍の力を得たこと。

第三に、陳留攻略により蜂起軍の規模が拡大し、数百人から陳留攻略後には一万人にまで増強されたこと。

第四に、劉邦はこれまで知識人を軽んじていたが、この高陽の酒徒に会ってから、大業を成すには知識人の助言と策略が不可欠であることを痛感したこと。

以来、劉邦は酈食其を広野君に封じるだけでなく、その弟の酈商も将軍として重用し、数千の兵を率いて劉邦と共に南征北戦し、多くの功績を挙げた。酈食其は劉邦に重用され、酒徒が劉邦の創業期の重要な謀臣の一人となったのである。その後も、彼は劉邦の使者として各地を奔走し、諸侯を瓦解させることにも多くの功績を挙げた。紀元前204年、楚漢が争っていた時、彼は劉邦にこう進言した。「二雄は共に存立できない。楚と漢が長く対立し、決着がつかないため、民は不安定になり、天下は揺れ動いている。農夫は鋤を置き、織女は機を下り、天下の心はまだ定まっていない。どうか早く兵を進め、滎陽を収め、敖倉の穀物を確保し、成臯の険を塞ぎ、大行の道を遮断し、斐狐の口を防ぎ、白馬の津を守り、諸侯に実力の形勢を示せば、天下は自然とあなたに帰順するでしょう。」また、当時も兵と将を多く持ち、一地域を割拠していた斉王田広を説得することを自ら申し出た。高陽の酒徒のこの進言は、劉邦が天下を取るための戦略思想となった。劉邦は彼を遣わし、天下の利害を説いたところ、「田広はその通りだと思い、酈食其の言うことを聞き、歴下の兵の守備戦を止め、酈食其と共に日々酒を飲んで楽しんだ。」ところが、韓信がこの隙を突いて斉を攻めたため、田広は酈食其に裏切られたと誤解し、酈食其を鍋で煮殺した。死の直前、田広は「お前が漢軍を止められれば、命は助けてやる」と言った。酈食其は答えた。「大業を成すには、細かいことにこだわらない。大徳は辞退しない。私はこれ以上、お前のような者に言うことはない。」と、堂々と死を遂げた。

酈食其の死後、劉邦が皇帝となり、功臣たちに賞を授ける際、酈食其の息子酈疥を高粱侯に封じ、前功を忘れないことを示した。時が経つにつれ、酈食其の名前は人々の間に次第に忘れ去られていくが、「高陽の酒徒」という言葉は、彼の代名詞となった。酒を好む者は、自らをそう称し、それを誇りに思う。おそらくその理由はここにあるのだろう。

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