浙江省の都市や農村には、宋代の大文豪・蘇軾(そしょく)に由来する、家々で知られる名物料理「東坡肉(とうはにく)」がある。この料理はすでに千年近く伝わっており、その物語は非常に興味深い。
蘇軾(1037-1101)は北宋の著名な文学者で、本名は子瞻(しせん)、号は東坡居士(とうはきょし)であるため、人々は彼を「蘇東坡(そとうは)」と呼ぶ。彼はかつて二度にわたり杭州の地方官を務め、地元の民衆のために誠実な善行を積んだため、蘇東坡の業績は浙江省の民間に広く伝えられている。今日でも人々は西湖の堤防を「蘇堤(そてい)」と呼び、伝説によれば「東坡肉」の伝承はこの「蘇堤」の建設とも関係しているという。
蘇東坡は若い頃、北宋の都で官職に就いていたが、当時の改革派・王安石と政治的見解が異なり、自ら地方への転任を願い出た。1071年に杭州の通判(つうはん)となり、その後も密州、徐州、湖州などで知州(ちしゅう)を務めた。1079年、「烏台詩案(うだいしあん)」と呼ばれる事件で弾劾され、逮捕・投獄された。数か月後、黄州(現在の湖北省黄岡市)へ左遷され、「団練副史(だんれんふくし)」という名ばかりの小官を務めることになったが、実質的には追放であった。この時期、蘇東坡の心の寂しさ、家の冷えきった状態、生活の困窮は言うまでもない。しかし、当時黄岡一帯では豚肉が比較的安価だったため、蘇東坡は貧しい境遇の中でもよく自分で豚肉を調理し、友人とともに味わっていた。彼は豚肉の調理法を紹介する詩を一首詠んでおり、「黄州の豚肉は良し、価格は糞土のように安い。金持ちが食べず、貧しい者も上手に煮ない。火を弱く、水を少なめに、火加減が十分になれば自然に美味しくなる」と詠んでいる。このことから、「東坡肉」の研究は黄州での追放生活の時期に始まったことがわかる。
1085年、宋の哲宗が即位し、司馬光の一派が再び政権を握った。翌年、蘇東坡は開封(汴京)へ戻り官職に復帰したが、彼は保守派と王安石の新法の積極的な意義について意見が対立し、再び地方官に左遷された。1090年、彼は再び杭州の地方官として赴任した。この時、蘇東坡は杭州の数万の労働者を動員し、西湖の浚渫(しゅんせつ)、堤防の建設、水利事業の整備を進めた。人々はこの太守に感謝の意を表すため、豚肉や紹興酒(紹興酒、黄酒)などを蘇東坡に贈った。蘇東坡は家族に命じた。「豚肉をよく煮て、黄酒と一緒に工事現場に届け、労働者たちをねぎらえ」と。しかし、家族は誤って豚肉と黄酒を一緒に煮てしまった。その結果、予想外の出来事となった。この方法で煮た肉は、特に香り高く、味わい深く、独特の風味があったのだ!この出来事は一時、美談として広まり、たちまち評判になった。人々は蘇東坡の功績を称え、また彼の調理法を次々と真似始めた。こうして「東坡肉」は杭州の伝統的な名物料理となり、世界中にその名を知らしめることになった。