歴史の物語

錦囊妙計(きんのうびょうけい)

荊州を劉備が占領したため、東呉の大将・周瑜は一心に荊州を奪還しようとした。彼は劉備の妻が亡くなったことを知り、孫権の妹を劉備に嫁がせて劉備が呉に婿入りするよう仕組み、その際に彼を牢獄に幽閉し、荊州との交換にしようと考えた。諸葛亮はこの計略を既に看破しており、劉備に付き添って婚姻の交渉に行く趙雲に、三つの錦囊に納めた妙計を与えた。

長駆直入(ちょうくちょくにゅう)

西暦219年、曹操は戦略的要地である荊州を奪取するため、劉備とこの地域で激しく戦っていた。劉備の大将・関羽は重兵をもって襄陽を包囲し、曹操の従兄弟である曹仁は襄陽に隣接する樊城を死守していたが、非常に厳しい状況に陥っていた。この年7月、曹操は虎威将軍の于禁に軍を率いさせて曹仁を援護させた。

虎を山に帰す(こをさんにきす)

曹操が自ら大軍を率いて呂布を破った後、劉備は曹操に従って都の許昌へ行った。曹操は表面的には劉備を非常に尊重しているように見せていたが、実際にはまったく安心しておらず、常に人を派遣して劉備の動静を探らせていた。当時、曹操に強制的に許昌へ連れてこられた漢の献帝は、密かに詔を下して人々を組織し、曹操を誅殺しようとしていた。

対岸観火(たいがんかんか)

西暦202年、袁紹は病に倒れ、まもなく亡くなった。そのあと、三人の息子たちの間に権力争いが勃発した。長男は排除され、権力は次男が掌握し、三男はこの決定を支持した。当然、長男は納得せず、袁家の兄弟たちの内紛がはじまった。曹操は、この兄弟間の内乱を好機と見なし、攻撃を仕掛けた。

曲突徙薪(きょくとつししん)

霍光(かくこう)は字を子孟(しぼう)といい、西漢中期の権臣である。漢武帝(かんぶてい)が臨終のとき、遺詔に従って漢昭帝(かんしょうてい)を輔佐した。漢昭帝が亡くなった後、霍光は昌邑王劉賀(りゅうが)を皇帝に迎え立て、やがて漢宣帝(かんせんてい)を即位させた。霍光は二十数年間政権を握り、漢昭帝、漢宣帝の両帝を補佐し、漢王朝に功績を残したため、博陸侯(はくろこう)に封じられた。

明哲保身(めいてつほしん)

西周の宣王(せんおう)が在位していた時代、朝廷には尹吉甫(いんきっぽ)と仲山甫(ちゅうざんほ)という二人の重臣がいた。彼らは周宣王を補佐し、多大な功績を挙げた。尹吉甫の名は甲(こう)で、「尹(いん)」は官職名である。彼はかつて軍を率いて北方の狁族(くんぞく)の侵攻を撃退し、成周(現在の河南省洛陽市の東)一帯で南淮夷(なんかいい)などの民族から貢物を徴収する任務も命じられた。

荊を背負って罪を謝る(けいをせおってつみをあやまる)

戦国時代、趙国には文官と武官の二人の優れた大臣がいた。武官は廉頗(れんぱ)で、勇猛果敢で戦いに長け、何度も軍を率いて斉・魏などの国を破り、その勇名は諸侯の間に知られていた。文官は藺相如(りんそうじょ)で、勇気と智略を兼ね備え、強大な秦王に対しても危機に臨んでも恐れなかった。

毛遂自薦(もうすいじけん)

趙国の平原君は、戦国四公子として有名な人物であり、その門下には数千人もの食客がいたと伝えられている。毛遂もその一人であった。紀元前257年、秦の軍隊が趙の都・邯鄲を包囲したため、趙の恵文王は平原君を楚国に派遣し、援軍を要請させた。しかし楚王は簡単には承諾しない相手であったため、平原君は20人の門客を連れて行った。