風雨にさらされながら奔走する(櫛風沐雨) 遠い古代、天地は茫漠とし、宇宙は荒々しく、人々は海からの浸水や洪水に苦しめられていた。帝堯が治世していた頃、彼は大禹の父である鯀を派遣して治水させた。しかし鯀は洪水に逢えば堤を築き、水があれば堰を設けるという、主に洪水を塞ぐ方法で治水を行ったため、結果的に洪水の氾濫はますます深刻になった。 続きを読む について 風雨にさらされながら奔走する(櫛風沐雨)
目を園にやらず(もくをそのにやらず) 西漢の時代、著名な思想家・政治家・教育家である董仲舒がいた。広川(現在の河北省景県広川鎮大董故荘村)出身である。景帝の時代に博士となり、『公羊春秋』を講じた。 続きを読む について 目を園にやらず(もくをそのにやらず)
日(ひ)に暇給(いとまた)わず 紀元前202年、劉邦は項羽を破り、皇帝の位に就いて漢王朝を建国した。歴史的には漢高祖と呼ばれる。劉邦が皇帝になったばかりの頃、朝廷が直接統治する領土はわずか十五郡に過ぎず、残りの土地はすべて功績のある諸侯王に封じられた。これにより、戦国時代のような割拠状態がほぼ復活した。 続きを読む について 日(ひ)に暇給(いとまた)わず
曲高ければ和す者寡し(きょくたかければわすものかす) 春秋戦国時代、楚国の有名な文学家に宋玉(そうぎょく)という人物がいた。字は士元(しげん)、別名は子淵(しえん)。中国古代の十大美男子の一人に数えられ、老荘思想を尊崇していた。戦国時代の鄢(現在の湖北省宜城)の出身で、宋国の公族の末裔、楚国の文人。 続きを読む について 曲高ければ和す者寡し(きょくたかければわすものかす)
重きを負いて遠きに至る(じゅうきをおいえてんきにいたる) 龐統(ほうとう)は字を士元(しげん)といい、「鳳雛(ほうすう)」と号した。漢の時代、荊州襄陽(現在の湖北省襄陽)の出身で、後漢末期の著名な策士である。幼い頃の龐統は素朴な人物で、外見からはあまり賢そうには見えなかった。当時、潁川の司馬徽(しばき)は気品高く、人物の鑑識に優れていた。 続きを読む について 重きを負いて遠きに至る(じゅうきをおいえてんきにいたる)
白雲蒼狗(はくうんそうく) 唐代に、杜甫(とほ)という著名な詩人がいた。字は子美(しび)、自らを少陵野老(しょうりょうやろう)と号した。唐代を代表する偉大な写実主義の詩人で、李白(りはく)とともに「李杜」と称される。河南鞏県の出身で、本貫は湖北襄陽である。 続きを読む について 白雲蒼狗(はくうんそうく)
拔山挙鼎(はつざんきょてい) 東漢末年、楚と漢が天下を争った。項羽の実力はより優れており、楚漢争覇の初期には兵も多く将も優秀で、劉邦を非常に恐れさせた。 続きを読む について 拔山挙鼎(はつざんきょてい)
分庭抗礼(ぶんていこうれい) 春秋時代、魯の国に孔子(きょうし)という人物がいた。子(し)姓、孔(こう)氏、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうに)。孔子は儒教の創始者である。私的に教えを広める風潮を始め、仁・義・礼・智・信を説いた。弟子は三千人おり、その中で特に賢い者は七十二人いた。 続きを読む について 分庭抗礼(ぶんていこうれい)
暗香疎影(あんこうそえい) 北宋の時代、林逋(字は君復)という有名な隠士がいた。漢民族で、浙江の大里黄賢村出身(一説では杭州の銭塘)。幼少期から勤勉に学び、経書や史書、諸子百家の学問に通じていた。書物には、彼の性質が高潔で自らを愛し、静かな生活を好み、栄利を追わなかったと記されている。 続きを読む について 暗香疎影(あんこうそえい)
郢書燕説(えいしょえんせつ) 春秋戦国時代、楚国の都郢にいるある大臣と、北方の燕国の宰相は親友同士で、よく手紙のやり取りをしていた。二人は手紙の中で、互いの異なる意見を交換し、治国についての考えを語り合っていた。 続きを読む について 郢書燕説(えいしょえんせつ)