ことわざの物語

探驪得珠(たんりとくじゅ)

はるか昔、黄河のほとりに住む一家がいた。葦を刈り、簾や箕を編んで生計を立てており、非常に貧しい暮らしをしていた。ある日、息子が川べで葦を刈っていたが、真っ盛りの太陽に照らされて頭がくらくらし、座って休むことにした。彼は目の前の川面が日光に照らされてきらきらと輝くのを見ながら、父がかつて「川の最も深い底には多くの宝物があるが、誰も行くことができない。そこに『驪龍(りりゅう)』という猛々しい黒龍が住んでいるからだ」と言っていたことを思い出した。

門牆桃李(もんしょうとうり)

春秋時代、孔子は当時の大学者であった。孔子は私学による講学の風を打ち立て、仁・義・礼・智・信を提唱した。孔子は儒教の創始者である。伝えるところによれば、孔子には三千人あまりの弟子がおり、その中でも特に学識の深い七十二人は「七十二賢」と尊称された。この七十二賢の中に、端木賜(たんもく し)という弟子がいた。

本末転倒(ほんまつてんとう)

戦国時代、斉国は趙国との外交関係を強化するために、使臣を派遣して趙威后(ちょういけいこう)を訪ねた。斉国の使臣は趙国に行ったことがなく、ましてや趙威后に会ったこともなかった。しかし、以前から趙威后が非常に賢明で徳のある王后であると聞いていたため、この任務を大変喜んで引き受けた。

単刀赴会(たんとうふかい)

三国時代の初期、孫権と劉備は連合し、赤壁で曹操を大敗させ、曹操の勢力を大きく損なわせたため、一時的に劉備や孫権への脅威はなくなった。これにより、孫権と劉備はそれぞれ領土を拡大し、多くの地盤を獲得した。孫劉同盟以前に、劉備と孫権は赤壁の戦いの後、荊州は孫権のものになると約束していた。

程門立雪(ていもんりっせつ)

宋の時代、程顥(ていこう)と程頤(ていぎ)という兄弟がいた。兄弟ともに詩書に通じ、学識豊かで、非常に優れた学者であった。毎日、その名声を慕って訪れる者や学びに来る者が絶えなかった。当時、楊時(ようじ)という人物がいた。彼は幼い頃から頭がよく、勉学に励み、四歳で読書を始め、七歳で詩を詠み絵を描き、八歳で詞や賦を作ることができた。神童と称され、遠近にその名が知られていた。

南柯の夢

「隋の末期から唐の初期にかけて、広陵に淳于尊(じゅんうそん)という男が住んでいた。彼の家の庭には、根が深く葉が茂った大きなアカガネバナの木があり、真夏の夜には月が明るく、星がまばらに輝き、木の影が揺れ、夕風が心地よく吹く、涼をとるには絶好の場所だった。淳于尊の誕生日の日、親類や友人たちは皆祝いに集まった。彼は一時の喜びにかまけて、酒を数杯多く飲みすぎた。夜になり、親類友人が皆帰った後、彼は少しだけ酔った気分でアカガネバナの下に一人座り、涼を取っていた。酒に酔ってまぶたが重くなり、気づかないうちに深い眠りに落ちてしまった。

千変万化

ある日、周の穆王が崑崙山(こんろんざん)から合山(ごうざん)へ帰る途中、偃師(えんし)という男がおり、その技術は非常に巧妙で、作った動物は鳴き走ることもできると聞いた。穆王は半信半疑になり、すぐに偃師を呼び出して、「お前がさまざまな巧妙な品物を作れると聞いたが、一つ取り出して、見せてみよ」と言った。翌日、偃師は木で彫った人形を連れて穆王に謁見した。穆王が見ると、その人形は五官がそろい、眉やひげまでまるで本物の人間のようで、非常に驚いた。

家を愛すれば烏も及ぶ(愛屋及烏)

伝説によれば、殷商(いんしょう)末期の商の紂王(ちゅうおう)は、極度の贅沢を好み、残虐で道理に反する愚かな君主であった(『助紂為虐(じょちゅういぎゃく)』参照)。「西伯(せいはく)」(西の諸侯の長)の姫昌(きしょう)すなわち後の周文王(しゅうぶんおう)は、紂王に反対したため幽閉され、多くの工夫を重ねてようやく獄中から解放された。当時、周の都は岐山(きざん、現在の陝西省岐山県)にあった。周文王が岐山に戻った後、商朝の支配を覆す決意を固めた。まず軍事家である姜尚(きょうしょう、すなわち姜太公)を軍師として迎え、兵の訓練と戦の準備を積極的に進め、周辺のいくつかの小諸侯国を併合して、徐々に勢力を強めていった。