諸葛亮、涙を流して馬謖を斬る

後漢の末期、天下は魏・蜀・呉の三者が三足鼎立する形勢にあった。劉備が建立した蜀漢政権は西南に偏安していたが、常に魏国を北伐し、天下を統一して漢室の基業を回復しようとしていた。残念なことに、劉備は生前にこの願いを果たすことはできなかった。宰相の諸葛亮は先帝の遺志を完遂するため、大軍を率いて北伐に出た。

北伐が始まると、蜀軍の将軍馬謖(ましょく)は自ら進んで出て、戦略的要地である街亭(がいてい)を守るために出兵することを願い出た。馬謖は諸葛亮に深く賞識されていたが、実戦経験が不足しており、諸葛亮は彼に対して不安を抱いていた。しかし、馬謖が軍令状を立てることを申し出たため、諸葛亮はやむなく承諾し、王平将軍を同行させ、営を設営した後は直ちに本営に報告し、何かあれば王平と相談するよう指示した。馬謖はこれらを一つ一つ承諾した。

ところが、軍隊が街亭に到着すると、馬謖は山の上に陣を張ることを固執し、王平の助言を全く聞かなかった。また、約束通り営の配置図を本部に送ることも守らなかった。司馬懿が兵を派遣して街亭を攻撃し、山のふもとで食糧と水の供給を断つと、馬謖の軍は雪崩のように崩れ、重要な拠点街亭は失陥してしまった。

諸葛亮は今回の敗戦の原因を分析し、最大の過ちが馬謖を街亭の守備に任じたことにあると判断した。

彼は馬謖を呼び出し、その剛愎自用と驕り高ぶりを面と向かって叱責し、「もし馬謖を斬らなければ、軍紀を正すことも、軍威を立てることもできない」と明言した。馬謖は泣きながら言った。「あなたは私をまるで自分の息子のように見てくださり、私はあなたをまるで自分の父のように思ってきました。今、私は死罪を逃れられませんが、ただ私の家族をどうかよろしくお願いします。そうすれば、死んでも悔いはありません。」諸葛亮も涙を流して、「あなたの家族は私がしっかりと面倒を見ます。これ以上心配する必要はありません」と答えた。そして手を振ると、部下たちが馬謖を中軍の門外へ引き出し、首をはねて兵士たちに見せしめとした。

諸葛亮は馬謖を斬った後、棺を用意して厚く葬り、その妻や子供たちも丁重に慰労した。その後、死力を尽くして戦った王平を称賛し、彼を討寇将軍に昇進させた。賞罰を明確に定めた後、諸葛亮は上表して自ら三級降格を願い出て、宰相から三品の官吏に降格された。

解釈:紀律はすべての制度の基盤である。組織やチームが長く存続しようとするならば、その基盤は必ず紀律にある。優れたリーダーとは、必ず自分自身を律することができ、チームの紀律を厳格に執行できる人物である。所謂「炉の前では万人平等、誰が触れても火傷する」である。