戦争に溺れて国力を尽かす

272年、西陵(せいれい)を守っていた呉の将軍・歩闡(ほせん)が晋(しん)に降伏した。陸抗はこれを知ると、直ちに軍を率いて歩闡を征討した。彼は晋軍が必ず歩闡を救援に来ることを知っていたため、西陵の外郭に堅固な城壁を築くよう軍民に命じた。呉の将軍たちが何度も西陵を攻撃しようとしたが、陸抗は常に許可しなかった。

かきかき玉を誘い出す

唐代の高僧従諗禅師は、長年趙郡の観音院を主宰していた。彼は弟子たちの参禅に極めて厳しい要求をし、皆が静かに座って心を収め、集中して外界のいかなる妨げにも決して気を取られず、凝然として妄念を止め、心身ともに動かない禅定の境地に至らなければならないと伝えられている。ある日、僧たちが夜に集まった時、従諗禅師は意図的に「今夜、私の言葉を聞いて悟った者がいれば出て来い」と言った。

錦囊妙計(きんのうびょうけい)

荊州を劉備が占領したため、東呉の大将・周瑜は一心に荊州を奪還しようとした。彼は劉備の妻が亡くなったことを知り、孫権の妹を劉備に嫁がせて劉備が呉に婿入りするよう仕組み、その際に彼を牢獄に幽閉し、荊州との交換にしようと考えた。諸葛亮はこの計略を既に看破しており、劉備に付き添って婚姻の交渉に行く趙雲に、三つの錦囊に納めた妙計を与えた。

長駆直入(ちょうくちょくにゅう)

西暦219年、曹操は戦略的要地である荊州を奪取するため、劉備とこの地域で激しく戦っていた。劉備の大将・関羽は重兵をもって襄陽を包囲し、曹操の従兄弟である曹仁は襄陽に隣接する樊城を死守していたが、非常に厳しい状況に陥っていた。この年7月、曹操は虎威将軍の于禁に軍を率いさせて曹仁を援護させた。

虎を山に帰す(こをさんにきす)

曹操が自ら大軍を率いて呂布を破った後、劉備は曹操に従って都の許昌へ行った。曹操は表面的には劉備を非常に尊重しているように見せていたが、実際にはまったく安心しておらず、常に人を派遣して劉備の動静を探らせていた。当時、曹操に強制的に許昌へ連れてこられた漢の献帝は、密かに詔を下して人々を組織し、曹操を誅殺しようとしていた。

対岸観火(たいがんかんか)

西暦202年、袁紹は病に倒れ、まもなく亡くなった。そのあと、三人の息子たちの間に権力争いが勃発した。長男は排除され、権力は次男が掌握し、三男はこの決定を支持した。当然、長男は納得せず、袁家の兄弟たちの内紛がはじまった。曹操は、この兄弟間の内乱を好機と見なし、攻撃を仕掛けた。

曲突徙薪(きょくとつししん)

霍光(かくこう)は字を子孟(しぼう)といい、西漢中期の権臣である。漢武帝(かんぶてい)が臨終のとき、遺詔に従って漢昭帝(かんしょうてい)を輔佐した。漢昭帝が亡くなった後、霍光は昌邑王劉賀(りゅうが)を皇帝に迎え立て、やがて漢宣帝(かんせんてい)を即位させた。霍光は二十数年間政権を握り、漢昭帝、漢宣帝の両帝を補佐し、漢王朝に功績を残したため、博陸侯(はくろこう)に封じられた。

明哲保身(めいてつほしん)

西周の宣王(せんおう)が在位していた時代、朝廷には尹吉甫(いんきっぽ)と仲山甫(ちゅうざんほ)という二人の重臣がいた。彼らは周宣王を補佐し、多大な功績を挙げた。尹吉甫の名は甲(こう)で、「尹(いん)」は官職名である。彼はかつて軍を率いて北方の狁族(くんぞく)の侵攻を撃退し、成周(現在の河南省洛陽市の東)一帯で南淮夷(なんかいい)などの民族から貢物を徴収する任務も命じられた。

荊を背負って罪を謝る(けいをせおってつみをあやまる)

戦国時代、趙国には文官と武官の二人の優れた大臣がいた。武官は廉頗(れんぱ)で、勇猛果敢で戦いに長け、何度も軍を率いて斉・魏などの国を破り、その勇名は諸侯の間に知られていた。文官は藺相如(りんそうじょ)で、勇気と智略を兼ね備え、強大な秦王に対しても危機に臨んでも恐れなかった。