要領を得ず

漢武帝が即位したばかりの頃、北方の匈奴から降伏してきた人々は皆、匈奴が月氏(げっし)を破り、月氏王の頭蓋骨を大酒杯として使い、月氏の人々を追いやったため、月氏は匈奴に対して強い恨みを抱いていると語った。彼らは匈奴を攻撃したいが、他の国からの援助を得られないでいた。

幟を抜き替える(しつをぬきかえる)

このことわざは『史記』の「淮陰侯列伝」に由来する。「夜半に発して、軽騎二千人を選び、一人ひとりに赤い旗を持たせ、小道を経て山中に隠れて趙軍をうかがい、戒めて言った。『趙が我らが逃げるのを見て、必ず陣営を空にして追ってくる。そのとき、すみやかに趙の陣営に入り、趙の旗を抜き、漢の赤い旗を立てよ。』」

門を閉ざして過ちを省みる

西漢の昭帝の時代、燕の地の出身である韓延寿(かんえんじゅ)は、かつて東郡(現在の山東省鄆城)の太守を務めた。彼は部下の忠告をよく聞き入れ、良い意見を積極的に採用した。東郡で三年間官職にあった際、号令は厳しく、事件の処理は果断かつ迅速であったため、社会風俗が大きく改善され、東郡は当時全国で最もよく治められた郡県となった。その後、韓延寿は左馮翊(現在の陝西省大荔)の太守にもなった。在任の当初数年間は、地方の視察には一度も出かけなかった。

唐代の書家・張旭

張旭は唐代に著名な書家であった。ある時、字を書くことを非常に愛好していた顔真卿は、官職を辞して張旭の門下に入り、書道を学ぼうとした。彼は名師の元で学べば、すぐに書字のコツを習得し、一挙に名声を得られると考えていた。しかし、弟子になってからも、張旭は彼に練習の秘訣を教えなかった。ただ、字帖の特徴を簡単に指摘し、いくつかの名家の字帖を紹介して、顔真卿に模写させただけであった。時に張旭は少し酒を飲んだ後、顔真卿を連れて山登りをしたり、水遊びをしたり、市へ出かけたり、芝居を見に行ったりした。家に帰ると、再び顔真卿に字を書かせたり、自分自身が筆を走らせる様子を見せたりした。

高陽の酒徒

そこで劉邦は酈食其の提案を受け入れ、まず陳留を攻め取ることを決意し、酈食其を内応役に任命した。酈食其は县城に入り、陳留の県令に陳勝・秦の将、漢王の興隆の道理を説き、劉邦に降伏するよう勧めた。しかし県令は秦の厳しい法律を恐れ、軽々しく行動できず、断った。その夜半、酈食其は県令を殺害し、その首を城壁から下して、劉邦に知らせた。劉邦は大事が成ったと見なし、兵を率いて县城を攻撃し、竹竿に県令の首を突き刺して、「さっさと降伏しろ! お前の県令は既に斬首された! そうでなければ、城を落とすのが遅れた者も斬首されるぞ!」と大声で叫んだ。城上の守備兵は県令が死んだのを知り、守る気を失い、城を開いて降伏した。劉邦は城に入り、「その倉庫の兵器と食糧、蓄えられた穀物を手に入れ、三ヶ月分の兵糧を確保し、兵数は数万に達し、ついに秦を破った。」これはすべて高陽の酒徒の功績である。

暗箭傷人(あんけんしょうじん)

春秋時代、鄭国の鄭荘公は魯国と斉国の支援を得て、許国を征討する計画を立てた。(許国は今の河南省許昌市にあった小国。鄭国は許国の北にあり、今の河南省新鄭が当時の都城であった。) この出来事は『左伝・隠公十一年』に記されている。その年の夏、五月に、鄭荘公は宮殿の前で軍隊を検閲し、兵車を配分した。老将の潁叔考(けいしゅくこう)と若将の公孫子都(こうそんしど)が、兵車の取り合いをめぐって口論になった。勇将である潁叔考は年を取ったことを認めず、兵車を引いてすぐに走り去ってしまった。

作法自斃(さほうじへい)

商鞅(しょうおう)が改革を推し進めた際、まず貴族の特権を廃止し、軍功の大きさに応じて爵位を再び授けることを規定した。これにより、貴族たちは功績なくして報酬を得る特権を失い、商鞅に対して非常に不満を抱いた。しかし商鞅には秦の孝公(こうこう)の支持があったため、貴族たちは恨みを胸に秘めつつも、どうすることもできなかった。秦国はこの改革を経て、たちまち強盛となり、生産性が大幅に向上し、国庫は充実し、将兵は勇敢に戦い、六国を震撼させるほどの威勢を示した。商鞅は改革の功績により、商の地十五邑を封じられ、「商君」と号し、以来、人々は公孫鞅を商鞅と呼ぶようになった。

千載一遇

唐代を代表する著名な文学者である韓愈(かん・ゆ)は、幼少期に孤児となり、姉に養われて育った。彼は自ら刻苦して学び、若い頃から広く書物を読み漁り、学問の面で堅固な基礎を築いた。35歳の時に都に赴き、国子監博士を務め、後に刑部侍郎にまで昇進した。当時、仏教が盛んであり、唐憲宗も仏教を篤く崇拝していた。ある寺院に仏陀・釈迦牟尼の遺骨が安置されていると聞き、大がかりな儀礼をもってそれを宮中に迎え入れ、礼拝しようとした。これに対して韓愈は強く反発し、『諫迎仏骨表』という文書を書き、これに反対した。

百歩穿楊(ひゃくほせんよう)

戦国時代、秦の名将・白起が軍を率いて魏国を攻めようとした時、謀士の蘇厲はその知らせを聞き、急いで周の王に会ってこう警告した。「もし魏国が秦軍に占領されたら、陛下の立場も危うくなります。」当時、周の王は名目上は天子であったが、実際には諸侯国を統治する権限を失っていた。魏国が秦に滅ぼされれば、秦の勢力はさらに強大になり、周の天子への脅威も増大するからである。周の王がどうすればよいかと蘇厲に尋ねると、蘇厲はすぐ使者を送り、白起に攻撃を中止するよう説得し、その際に一つの故事を話すよう提案した。

破鏡重円(はきょうちょうえん)

南朝の末期、隋の文帝楊堅は周辺の南陳・北斉を滅ぼし、隋朝を建国した。このとき、南方にはいくつかの小国が併存しており、その都が建康(現在の南京)である陳国もその一つであった。隋朝は南方の小国を長く狙い、いつでも中国全土を統一する準備を整えていた。