民話の物語

端午の節句

五月初五(ごつき こごか)は、中国の年中行事の一つである端午の節句である。この日は、我々が「ちゅうし(ズンズ)」と呼ばれるもち米の葉包みを作る日である。毎年この日になると、多くの家庭でちゅうしを包み、さまざまな味や種類のちゅうしが、このちゅうしの香り漂う季節に次々と登場する。端午の節句の由来については、もともと諸説あり、統一されていない。ある人々は、五月初五に汨羅江(べきらこう)に身を投じた愛国詩人・屈原をしのぶ日と考えている。また、現代においては、この祭りは消毒や疫病を避ける日であるという人もいる。

湘西の「梅山娘娘」の伝説

湘西の沅陵県沅陵鎮の南門、杏渓沖にはかつて「梅山殿」という祠が存在していた。ここには、地元の土家族が崇拝する狩猟の神「梅山娘娘」が祀られていた。もともと、土家族の宗教的信仰は漢族の影響を深く受けており、山神を迷信し、先祖を崇拝していた。土家族の先祖は狩猟に長けており、「梅山神」は彼らが信仰する狩猟の神であった。猟師たちは狩猟の前後には必ず「梅山を安める」祭祀儀式を行い、「梅山娘娘」に供物を捧げた。

嫦娥奔月

「嫦娥应悔偷灵药,碧海青天夜夜心。」これは唐代の詩人李商隠の詩『嫦娥』の二句である。嫦娥が月へと飛び立つという物語は、中国の古代から広く伝わってきた。伝説によると、嫦娥は天帝の姪であった。彼女は美しく、天帝は彼女を非常に気に入り、彼女が何を望んでも、天帝は与えた。彼女は天宮で裕福な生活を送っていた。

天下第一等学问

東漢の時代、都洛陽の太学府(たいがくふ)は、儒教の経典を教える最高学府であった。府内には皆が博学な学者たちで、その官職はみな「博士」と呼ばれていた。ある年の春節、太学府は祝いの雰囲気に包まれていた。博士たちは提灯や飾りを掲げて忙しく動き回り、まもなく届く皇帝の詔書(しょうしょ)を待っていた。やがて、太学府の外で太鼓やラッパの音が響き渡った。明らかに、皇帝が博士たちに祝いの使者を送ってきたのだ。さらに皆を喜ばせたのは、詔書に皇帝が博士たちが春節を楽しく過ごせるよう、特別に一人一頭の羊を下賜(かし)すると書かれていたことだった。

劉邦、寿礼を贈る

呂后(りくこう)の父は年配の私塾教師で、大富豪でも高貴な身分でもないが、相当な名望家であった。娘は二人おり、容姿は申し分なく、どちらも花のような美しさだった。長女は少し変わっていて、年頃になっても他人に縁談を持ち込むことを許さず、自分で気に入った相手を選びたがっていた。呂老先生は娘の結婚話がまとまらないことに焦り、腹を立てて次女を犬を屠る者である樊噲(はんかい)に嫁がせてしまった。

寇母遺画教子

宋の真宗、景德元年(西暦年)のある午前、大宋の都、汴京(現在の開封)の宰相府では盛大な宴が開かれていた。宰相府の門前は人でごった返し、車馬が絶えず、都の高官や貴族たちが厚い贈り物を携えて次々とやってきていた。実は、この日は新任の宰相・寇準(こうじゅん)の43歳の誕生日だったのだ。そのとき、寇準は太師椅子(たいしせぎ)に堂々と腰を下ろし、気分は晴れやかで、満面の笑みを浮かべていた。

酒聖杜甫

李白は酒をこよなく愛し、「酒仙」と自称したが、杜甫の酒への情熱は李白に劣らず、「酒聖」と称された。郭沫若氏の統計によると、現存する杜甫の1400余首の詩のうち、酒に言及しているのは300余首にのぼる。杜甫は十四五歳の頃にはすでに大酒飲みであった。彼が書いた『壮遊』という詩に、その証拠が十分にある。「昔十四、五にして、翰墨の場に出で遊ぶ……性豪にして業(なりわい)酒を嗜み、悪を嫉みて剛腸を懐く……飲酣として八極を視れば、俗物茫茫たるばかり」。

道光帝が皇太子を選ぶ

清の道光二十六年(西暦1846年)、すでに65歳の高齢となった道光帝は、自身の体調に不安を感じ、国政を執ることにしばしば心身ともに余裕がないと感じていた。そこで、皇太子を冊立するという件を、そろそろ議題に上げるべき時機に来たと判断した。道光帝には九人の息子がいた。長男の奕緯、次男の奕綱、三男の奕継は既に相次いで亡くなり、五男の奕誴は幼少の頃から醇親王綿愷の養子になっていた。七男の奕譞、八男の奕詥、九男の奕譓はまだ幼かったため、皇太子にふさわしいのは、16歳の四男奕詝と15歳の六男奕訢の二人だけだった。

龍舟競漕の由来

伝説によると、タイ族が住む地域にはかつて暴君とその大臣シナガオがいて、民を食いものにし、戦争を頻繁に起こして隣国を略奪し、数え切れない無辜の民を苦しめていた。世の人々は誰一人としてその悪行を恨まない者はおらず、暴君の実の娘でさえも彼に不満を抱いていた。この暴君は荒淫無度で、美しい女性を見るとすぐ悪意を抱き、彼に蹂躙された女性の数は計り知れなかった。暴君の側には七人の妻がおり、彼女たちは次々と七人の娘を産んだ。

乾隆帝が料理人に難題を出す

乾隆帝が二度目の南巡の旅を終え、蘇州と杭州の名山秀水を十分に堪能し、江南の珍味をすべて味わった。都へ戻る途中、勝芳鎮に差しかかったとき、突然気分を変えてみたくなった乾隆帝は、劉羅鍋とともに庶民の服装で街へ出かけた。勝芳鎮は小さいながらも水陸の要衝であり、北京・天津風の料理を出す店が数十軒もあった。二人はあちこち歩き回り、街の中心、橋のたもとにたどり着いた。そこには一軒の小さな飲食店があり、看板には「味濃文萃」という四文字が、また店の両脇には草書で書かれた対聯が掲げられていた。