伍子胥、楚の平王の死体を鞭打つ

伝説によれば、湖北省宜城の古楼崗は、かつて楚国の都であった古楼街である。楚平王がここで即位した際、彼は伍子胥の家族全員を殺害した。その後、伍子胥は呉国へ逃れた。楚平王は、伍子胥が将来必ず復讐に来るであろうことを予想した。将来の禍根を断つため、早々に自分の後事を整えるべく、全国から千人の巧みな職人を集めて、この湖の底に水下宮殿を築かせた。宮殿には秘密の通路や仕掛けが至る所に設けられ、万が一の際にはここに隠れることができるようにした。

袁崇煥、寧遠で大いに後金軍と戦う

魏忠賢の閹党が明朝の政界を混乱させていた頃、後金の汗ヌルハチは遼東地方で明軍を絶えず攻撃していた。薩爾滸の戦いの後、明王朝は老将・熊廷弼を関外に派遣し、遼東の軍事指揮を任せた。熊廷弼は才能に優れた将軍であったが、広寧(現在の遼寧省北鎮)の巡撫を務める王化貞は、熊廷弼の関外出張が自分の地位を脅かすと考え、あらゆる手を使って熊廷弼の指揮を妨害した。

大きな悪いウサギを誰が怖いものか

「お腹すいたなあ!」と、うさぎの三男がぶつぶつ言った。「ぼくもお腹がすいたよ。」次男のうさぎもそう言い始めた。「ぼくはもっとすいているんだ。」背の高い長男のうさぎも叫んだ。「人参が一本も残っていないわ。畑に行って抜いてこないと。」一番小さな妹うさぎが皆に思い出させた。「私が行くよ。」三男のうさぎがいちばん乗りで飛び出し、畑へ向かった。

台湾の民話:日月潭の神話伝説

昔々、台湾の大清渓のほとりに若い夫婦が住んでいた。夫の名は大尖牙(ダイジェンガ)、妻の名は水社姐(スイシャジェ)。二人は魚を捕って生計を立て、小さな暮らしをとても幸せに送っていた。ある真昼間、突然大きな轟音が響き、太陽が消え失せ、大清渓の水も濁ってしまった。夜になると、またしても大きな音がして、月も姿を消した。それ以来、大清渓の昼も夜も、ただ真っ黒な闇に包まれてしまった。

魯班、傾いた宝塔を知恵で直す

伝説によると、魯班(ろはん)は中国古代で最も賢く、最も巧みな大工だった。本名は公輸般(こうゆはん)というが、春秋時代末期の魯の出身であったため、「魯班」という名が後世に伝わった。あるとき、彼は呉国の姑蘇(こそ、現在の蘇州)の町を訪れた。人間の楽園と称されるこの地は、まさに名にふさわしい景観だった。古い城楼や塔が次々と並び、茶館や酒場は大変なにぎわいを見せており、魯班はますます観光意欲を高め、蘇州の建築様式をじっくりと観察しながら楽しんでいた。

景頗族の民話『雄鶏が太陽を招く』

遥か昔、天には九つの太陽があり、九つの太陽は九つの火の玉のように、一斉に大地を照らしていた。犬は日差しで舌を出してしまい、虎は耳が禿げ上がり、水は干上がり、大地はひび割れてしまった。人々やすべての草木、鳥や獣たちは、もはや生きていけなくなってしまった。そこで人々は一斉に罵り、突き刺し、太陽を追い払った。太陽が追い払われると、大地は真っ暗闇になり、どこもかしこも真黒な穴ばかりになった。こうして人々や万物も生きていけなくなってしまった。

端午の節句

五月初五(ごつき こごか)は、中国の年中行事の一つである端午の節句である。この日は、我々が「ちゅうし(ズンズ)」と呼ばれるもち米の葉包みを作る日である。毎年この日になると、多くの家庭でちゅうしを包み、さまざまな味や種類のちゅうしが、このちゅうしの香り漂う季節に次々と登場する。端午の節句の由来については、もともと諸説あり、統一されていない。ある人々は、五月初五に汨羅江(べきらこう)に身を投じた愛国詩人・屈原をしのぶ日と考えている。また、現代においては、この祭りは消毒や疫病を避ける日であるという人もいる。

湘西の「梅山娘娘」の伝説

湘西の沅陵県沅陵鎮の南門、杏渓沖にはかつて「梅山殿」という祠が存在していた。ここには、地元の土家族が崇拝する狩猟の神「梅山娘娘」が祀られていた。もともと、土家族の宗教的信仰は漢族の影響を深く受けており、山神を迷信し、先祖を崇拝していた。土家族の先祖は狩猟に長けており、「梅山神」は彼らが信仰する狩猟の神であった。猟師たちは狩猟の前後には必ず「梅山を安める」祭祀儀式を行い、「梅山娘娘」に供物を捧げた。

嫦娥奔月

「嫦娥应悔偷灵药,碧海青天夜夜心。」これは唐代の詩人李商隠の詩『嫦娥』の二句である。嫦娥が月へと飛び立つという物語は、中国の古代から広く伝わってきた。伝説によると、嫦娥は天帝の姪であった。彼女は美しく、天帝は彼女を非常に気に入り、彼女が何を望んでも、天帝は与えた。彼女は天宮で裕福な生活を送っていた。

天から火牛が降りて斉の威光を助ける

戦国時代、楽毅を大将軍とする燕の軍隊は、数か国を連合し、総勢数十万の大軍をもって斉国に大規模な攻撃を仕掛けた。燕軍はまさに無敵で、たちまち斉国の首都・臨淄を陥落させた。斉王は恐怖のあまり山東へと逃げ延びた。この時、楚国は淖(とう)という姓の将軍を派遣し、口々に「斉国を援護する」と宣言した。斉王は真に受け、彼を宰相に任命した。しかし、彼は真心から助けようとしたわけではなく、燕国と手を組んで斉国を分割しようという陰謀だった。まもなく、斉王はこの悪辣な男に殺害されてしまった。